帰宅した散文

なまいきです。当然のようにつまらないです。

お前はどこから来たんだ、と問われて、何の躊躇いもなくつらつらと説明できる存在が全く信用できない。僕は常にとりとめの無い生体で、一瞬前の僕は今の僕とは違っているのだから、お前はどこから来たと聞かれても普通は答えられないのではないだろうか。少し前に家にいたとしても僕はその時「僕」だったかなんて確証はない。どうやって判断したんだよ。そう問い掛ける事は何か哲学的な物に縛られて大人になった気でいる幼い子供のようで憚られるのです。じゃあ僕はどうやって動いていこう。がんじがらめに考え続けることは超しんどいでしょ。でも誤魔化しつづけることの方がひょっとしたら辛いかもしれない。なら正直に思い付いたことを目一杯考えた方が効果的だと思うんだ。まあ、当たり前なんだけど。
どうやって綺麗に生きていったらいいかわからなくて、とりあえず無作為に色んな人に出会ってみる。歪な人間関係を築いて、日常に入り込む。僕はその世界において完全なる異分子な筈なのに、何故だか暖かみが感じられるのは、その場にいる時点でその現状が真実になるからでしょうか。どの日常も、人様の物なのにどこかしっくりくる。時には本を読む。僕の拙い想像力は最大限に新しいものを作り上げようと必死で活動してくれる。信頼における文章に、努力をする脳が働きかければ、どんな素敵な景色にでも入り込める。たまに理解不能でとても自分のものには出来ない物があるけれど。文字は弱い。創造性がなければすぐに姿を消してしまい、僕から逃げてしまう。追い掛けても追い掛けても尻尾が掴めなくて、そもそも実体のないものなのに、錯覚によって人間を翻弄する。人間が文章を手で踊らそうと試みたりしたからだ。これは罰だ。それなら仕方がない。僕は諦めて目を閉じる。
音が聴こえた。生活に溢れる音楽はとてもつかみとれない。範囲外を自在に跳ね回るその流動性は僕を魅了し焦がしつけてスルッと抜け落ちてしまう。忘れてからではもう遅い。二度と手に出来ないものを目前にしたのに。熟もったいない奴だ。
映画は二流だと思っていたんだけど、おかしいよね。こんなにも良質な間接的経験を接種できる唐栗は、他に存在しないのに。活字が言語として浮かび上がり、その一つ一つの温度を体感させてくれる。人間と人間を繋ぎ合わせて一つの円を作る。円は始まりも終わりもないくせに、何故かそこには終着点が存在する。どうやっているんだろう。鮮やかな色彩は僕を惑わす。この色で、この感覚で、この空間を描き出すのはズルをされている気分だ。それは違う、アンフェアではないですか?他人の世界に入り込んでいるくせに。
人を見続けていると自分がいなくなってしまう。右手は左手に触れ、右足は左足に近づけるのに僕は僕には触れていない。思い込みってこんなに恐ろしいんだ。本質はそこには無いんです。
だから誰も「僕」を定義出来ない。それが理想だ。