帰宅した散文

なまいきです。当然のようにつまらないです。

味噌汁が多すぎる

 何事もほどほどが良いもので、例えば三人家族の夕飯を用意するのに、料理長は5人もいらないし、もっと言えば料理長自体いらないし、それどころか料理人すら要らない。いくら大好きな食べ物でも、そればかり大量に毎回出されていたら逆に嫌気がさすだろう。
だからつまり、僕は今文句を言いたいのだが、それは非常に理にかなったことで誰も何も反論は出来ないと思う。あとは発言する勇気をどうにかして手に入れれば良いだけの話だ。
なんと言っても、味噌汁が多すぎるのである。
僕の家には、大は小を兼ねると言い聞かせて購入した巨大な鍋があり、それだけでほとんどの料理過程を済ませることができる。素晴らしい利器だ。僕もこの鍋のように、あらゆる状況に対応しうる、有能な存在として芽生えたかったものである。
だがそんな存在でももちろん欠点はあるもので、それと言うのも量調節が難しいのである。最初、極限まで少量で作っていたが、体積が小さすぎて熱を通すとすぐ蒸発してしまいそうな様子だった。
そこで量を増やしたのだが、勢い余って予想の二倍以上入れてしまったのである。人は失敗が続くと努力を放棄したがるもので、僕もそれに倣って分量を戻さないまま最後まで作りきった。
果たして、出来上がる量がえげつない。多すぎると文句を言っても、最初から最後まで自業自得なのである。どうしようもない。緩和しようと大根を余分に投入したら、余計に取り返しがつかなくなってしまった。意地でも消費するしかないのだろうか。
だが、一人暮らしの僕にこの量の味噌汁が必要かと言うと絶対に必要ない。むしろ、全くなくても良いくらいだ。元々僕はあまり味噌汁が好きではないのに、なんとなく気紛れで動いたところこんなことになってしまったのだった。
食物を無駄にすることは、想像以上に多い世界中の飢餓者に対する冒涜である。生産者にとっても深い傷を認知しないところで与えている。だが、功利主義的に考えてみると必ずしもそうではないのではないだろうか。味噌汁を捨てることで、少なくとも僕は安心するし、無機物と下にみられがちの鍋も救われる。これはマイノリティを助け出すことにはならないだろうか?なるはずがない。結局何がしたいのかというと、味噌汁が多すぎるから捨てさせてほしい。それは言い換えると、僕が僕のためにした行為が思うようにいかなかったので、なかったことにさせてもらうということだ。
僕は全世界の知らない人達に思いを馳せながら、勢いよく鍋をひっくり返した。 もちろん重力は僕に二度とその味噌汁を与えてはくれない。爽快さを取り戻した家の台所が、優しく僕に微笑みかけた。