帰宅した散文

なまいきです。当然のようにつまらないです。

特権を有したカニ

 特権は与えられるものでなく、潜在的に有する物だ。僕の手には沢山の特権が乗っけられていて、決して離れないよう魔法の接着剤で厳重に貼り付けられている。それを見て、地球に生きる他の生物に目を移すとなんと貧しいことか!
彼らは苦痛に耐えている。やっとの思いで利益を産み出しても、限度のない豊かさへの探求を胸に抱く人類という生命体に、全て奪い取られてしまう。だが、彼らは口を開かない。至極当然のように、呆気なく搾取されていく。
僕は、人間なのだけれど、少し人間に成りきれていない節がある。人間として扱われると言い知れない怒りに襲われ、こんなにも不甲斐ない、無益な略奪者に陥れないでくれと大声で叫びたくなる。人間として最悪だ。自分の本質を認められない存在に居場所などない。
だから、僕は自然に還りたいと思った。この、何一つ不自由しない都会と名のつけられた天国をいち早く脱出しなければ、同族以外の生物を、皆見殺しにしているような罪に苛まれ続けるからだ。
それで、僕はそっと夜の街に繰り出した。キンと冷えた冬の路地はどこか緊張感を帯びていて、街灯が酷く暗く感じた。左手で残金を確かめながら歩みを進めると、ぼんやりとした明かりのなかに何者かが踞っているのを発見した。否、発見してしまったのだ。こんな寒々とした夜更けに立往生している人なんて、酔っ払いか犯罪者だけだ。しまったと咄嗟に判断した僕は、それでも恐る恐る近づいていった。駅の方面がそちらなのだから仕方がない。今更家に帰れば、静寂に溶け込めず親に見つかり、長い間お叱りを受けるに違いないのだ。それよりは、酔っ払いを上手く交わす確率の方に懸けたい。
街灯から遠ざかり、人影と十分接近していくと、徐々に、その正体が普通ではないことに気がついてきた。
それもそのはずだ、そこにいたのは目を剥くほど巨大な蟹だったのだから。
僕は冷静に考えてみた。一番の問題は、この蟹を誰にもらったことにするかである。せっかく立派な蟹を手にいれても、この生き物は無駄に食物としての価値が高いために、くすねてきたのではないかという猜疑の目を親に向けられる可能性が高いのだ。だが、自分一人で調理するには少し大きすぎる。そもそも僕は料理が出来ない。鍋がどこにあるかもわからない。
夜道、真剣に台所の見取り図を考えていると目の前の蟹が少し身動ぎをした。僕は一瞬躊躇った後、蟹の隣にかがみこんだ。
蟹はキラキラ光っていた。普通に買うとしたら、いくら払うことになっていたのだろう。既に僕のなかでは、蟹の所有者は僕自身だった。指を出せば危うく切り千切られそうな強靭な手足は、僕の全身を魅了した。それと同時に、この蟹を家まで持ち帰るのは絶対に不可能であるような気がしてきていた。僕は悩んで、とりあえず蟹の動向を様子見しようと少し離れた道の端まで移動した。途端、闇夜に眩しすぎる白いランプが僕の目に飛び込んできた。轢かれる!
思わずつぶってしまった目を開けると、車は綺麗に急停止していた。
「蟹!」
そう叫んで駆け寄った僕は、無傷の蟹を見てにっこり笑った。良かった、彼は無事だった。轢かれていたら潰れて即死だろう。人間じゃなくて良かったと安堵して走り去った車を見送ると、蟹は突然横歩きを始めた。慌てて追いながら、僕は不思議と考え込んでいた。
蟹はその特有の存在感で、一台の車を停めたのだ。もしこれが一匹の小さな蟻だったらどうなっていただろう?同じ一つの命なのに、無頓着に轢死させられていた。そして、轢かれても当事者の運転手や、傍観者の僕に気づかれることもない。そもそも、暗い道で蟻が歩いていても、僕自身が気付かずに踏みつけてしまう可能性がある。しかし蟹は、自らの存在を空間に知らしめる能力がある。その効力で、僕という一人の人間の注意を惹き、道行く車の足を止めさせた。これは蟻には出来ないことだ。
このことに気付くと、僕の視界は一気に明瞭になった。世界を低い位置から捉えられるようになったのだ。僕は人間だから、人間対他の生命体という二項対立でしか物事を考えるつもりがなかった。それが、他の生物が僕と比べて少量の利益しか享受できずに、不満を燻らせているという考えに繋げていたのだ。本当は違った。とんだ、失礼な行為だった。見下していたのは僕の方だったのだ。姿勢を少し低くしてみれば、そこにはまた別の能力ヒエラルキーがあって、自然は循環しながらゆっくりと呼吸を続けている。僕がもて余していた特権は、人間が築いた社会でのみ優位に働き、意味を持つ。僕の隣にいる蟹は、地面により近い世界、僕には不可視な関係性の中で己の特権を最大限に発揮している。個と個の関係性の中でのみ、輝くのが特権であった。
僕は目を開かれた思いで蟹を抱き上げた。この蟹との出会いで、僕は気づいたことがある。
人間に抱えられた蟹は想像を絶するほど狂暴になり、 人間の持つ特権を全て無効化してしまうということだ。
血を流し、蟹を茹でることも叶わずに僕は清々しく帰路に着いた。